春の日 回遊魚
回遊魚
仕事は何時も、楽しくなかった。何しろ、上司が嫌な奴だった。責任のある仕事は何一つ任せてくれなかった。
嫌な事なんて、いっぱいあった。何か一つだけ取ったら、とても些細な事だった。その日に限って雪球みたいに膨れて膨れて、嫌な事に我慢が出来なくなった。
「何時までも、新人気分じゃ、困るんだよ?」
直属の上司が嫌味っぽく笑いながら、皮肉を言う。
「君ももう、三年もこの会社にいるんだしねえ? 子供の遊びじゃ、ないんだからさあ……」
そんな事は、もちろん分かっている。何しろその書類は彼女が作った物ではなかった。それは、上司も知っていた。
だが、苦情は彼女の所へやってくる。
「君も、こんな事ばかりされるとねえ……辞めてもらわなくちゃならなくなるよ?」
ニヤニヤしながら、彼女の上司は、彼女の顔を覗き込む。
むかむか、した。なぜ、何時もこの上司は自分にばかり、絡むのだろう。そう思った。
「だったら、辞めます。どうぞ次からは別の人へ苦情を持っていて下さい! 自分のやった仕事と関係のない苦情を毎日聞かされるのは、うんざりです!」
思わず言葉が口から出た。その途端に、何だか心がすっきりした。
「どうぞまた、別の人をつかまえて愚痴をおっしゃって下さい。私、来週から、残りの有給全部使って、辞めますから」
毎日、我慢をし続けていたから、さすがに限界だった。ニッコリ笑って言い放つと、呆然とする上司を尻目に、彼女は自分の席へ戻った。
ずっとしまいこんでいた、辞表を引出しから取り出す。その後で、有給休暇届け出の書類を書類棚から持って来た。
有給の残り日数、18日を書き込み、会社休業日とあわせてほぼ1ヶ月にして辞める日付を辞表へと書き込む。再び席を立って、上司の元へ戻り、辞表と有給休暇届を提出する。
「……これ、よろしくお願いします」
彼女は瞳に冷たい光を浮かべて、それだけ言うと自分の席へ戻り、仕事の続きを始めた。
辞める事務員が多かったから、自分で作っておいた引継ぎ用の書類が役に立つ。ずっと仕事も溜めずに済ませてきたのだ。
そうして、彼女はそれまで勤めていた会社を冬のボーナス直前に辞めた。
水族館に、行きたくなった。夏なら涼しいであろう水族館。こんなに寒くなってきた冬に行ったら、どんな感じだろうか? とも思ったから。
空は朝からどんより雲っていた。何だか温い空気が気持ち悪い。昨日までの、真冬と言って差し支えなかった温度に比べて、雪の降る事のなさそうな気温。
「……少しは、空いてるかな?」
独り言を呟いてみる。夏に行った、水族館を思い出したから。涼しい館内に、これでもか!と人がうごめいていた。
魚なんて、ちっとも見えないくらいに。
せっかく平日に行くのだ、空いていて欲しい。そう思って、閉館前に行く事にする。夕方になれば、きっと少しは空いているだろうから……。
混んでいる水族館は、夏の休日だけで十分だ。
そんな事を思いながら、夕方までの時間を使って彼女は出かける準備をする。
「好きな事、する時間も今までは殆ど、なかったんだから。……少しは楽しまなくちゃあね!」
ゆっくり、魚を見たかった。誰にも邪魔されずに、一人で。
できるなら、一人だけで。
午後三時三十分。彼女は水族館の前にいた。券売機の前には誰もいない。入り口付近にも、見学者の姿はない。
空いているようだ。嬉しくなりながら、彼女は入り口で半券を切ってもらう。そして、中に入った。
思っていたとおり、冬の水族館の中は、外に比べて暖かかった。でも、それはまるで、換気のされていない室内のような生ぬるさだった。
重くもったりとした空気で埋め尽くされていた。
一番最初の水槽の前には数えるほどしか人がいなかった。彼女の予想通り、空いている。
回遊魚の水槽の前にあるベンチに座り、彼女はくるくる回る魚を眺めた。
水槽の中で、魚達は虚ろな目をして回り続ける。まるで、会社に通い続けている時の自分のよう。
ずっと見ていると、中に一匹、回り続ける魚達と逆の方向に回る魚がいた。水の流れに逆流する、一匹の魚。
よく見ると、その魚は鱗も鰭も、かなり傷ついている。ぶつかる度に、傷は増えていた。
けれど、それは他の魚も同じだった。水槽の壁に、ぶつかった事のない魚はいないらしい。やっぱり、鱗も鰭も傷ついていた。
「……狭すぎるから、だから……こんなに傷ついて……」
海にいる筈の……海の中ならば付かなかったかもしれない傷。
けれど、それは同時に水槽の中にいる以上に、命を落とす危険がある。自由と引き換えに。
岩壁にぶつかったり、他の魚に食べられたり。きっと、人に捕まったり、何かの病気に掛かったり……とても少ない確率で生き残れる海の中。
「こんな……狭い中で、一生を過ごしていたくないのかもしれない……」
例え、その命を亡くしても。 水槽の中で泳ぎ続ける魚。自分の意志で選んだ事ならば、納得行くだろうに。
ただ、与えられた世界。選び取る事も出来ずに死ぬまでずっと、この狭い世界で生きて行く。
「……選べただけ、幸せなのかな?」
ふと、自分の事を振り返って思う。選べなかった、水槽のような会社の中で、自分の一生が終わったわけじゃない。
誰に話しても、辞めて当然だと言われる会社。我慢の限界を試されていた気もする。
「まだまだ、これからだもんね。次の仕事、探さなきゃ」
回り続ける魚の水槽の前で、小さく呟きながら、心の中がスッと晴れる。
それまで、未練ではなく、後悔に似た気持ちが彼女の中で渦巻いていたから。
勢いを付けて立ち上がる。そして彼女は、まだ見ていない水槽を目指して、歩き出す。
何しろ、1時間近く一番最初にある水槽の前にいたのだ。閉館時間まで、後わずか。全部の水槽を見られるかどうか……。
すっきりとした気持ちで、沢山の水槽を泳ぐ色とりどりの魚を眺める。次に自分が入るであろう、自分で選ぶ、水槽の事を思って。
ほんの少し休憩をしたら、またどこかにある水槽を選ぶのだ。水の合う、大きさの合った水槽を。
そんな事を思いながら、彼女は少し、早足で水族館の中を回る。魚の群れが泳ぐ水槽の隙間縫って。
新しい、毎日を迎える前にほんの少しの休息の中で。前に向かう為の勇気を溜める。
そして、回遊魚のような日常に戻るのだ。
終幕