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春の日 回遊魚
春の日
薄く靄かかった空気が流れる。川に沿い、ゆるゆると続く道の先。上空が、仄かに淡い桜色に染まる。風は強くないけれど、少しばかり肌寒くも感じる、そんな春の日。
天頂は極めて薄い露草色で何度となく染めたような、深みのある青。薄い桜色に染まる辺りは水色というのが相応しい、そんな柔らかな色をした空。
その日はそんな、良く晴れた朝だった。
川沿いの道をゆっくりと歩くのは、老人と彼の飼う犬の習慣だった。
毎朝、雨の日以外はほぼ同じ時間に同じ場所を歩き、同じ時間に通り過ぎる。公園横の坂道をゆっくりゆっくり上がった後で、坂の途中に入り口が広がる公園へ寄り、休むのだ。
そうして十分な休憩を取った後、また坂道を下り、川沿いの道を通って家へ帰る。それが、彼と彼の飼う犬が気に入っている、大切な散歩コースだったから。
ゆるゆるとした川沿いの道を歩き、彼は仄かな桜色と空色のコントラストを眺めて、目を緩めて笑みを浮かべる。
彼は桜が、好きだった。
「……あぁ、たろう。また、この季節がきたんだなぁ」
ワゥ
たろうと呼ばれたその犬は、嬉しそうにぱたりぱたりと尾を振り答える。
老人とたろうは決めた散歩道を、半分近く、歩き終えていた。もうすぐ、公園脇の桜並木に辿り着く。彼は桜を眺めて、目を細めた。今はもういない、彼のたった一人の伴侶を想って……。
彼の伴侶である彼女も、桜がとても好きだった。春になるといつでも、桜を見に出かけようと彼を誘うのだ。もちろん、常に一緒に行ける訳ではない。
一緒に行けない時にどうするかといえば、彼女は出来る限り覚えたことを、夕食時に話すのである。桜の見事さ、人の動き、今日はどんなことがあったのか。彼と彼女と、時にはたろうも連れて。春、彼らの中は桜の記憶で、いっぱいになる。
彼女は春、どんな時でも、いつでも幸せそうだった。それは彼女が眠るように逝ってしまった日の、前日も変わらず。
春の日にはいつでも、彼女は幸せそうに見えた。
「あなた?」
「……どうかしたのか?」
妻の呼び掛けに、彼は振り向く。いつにない、優しい響きを耳が捉えたから、余計にしっかりと。
「……いいえ。なんでもないんです。なんだか急に呼びたくなってしまって……」
ゆっくりと。花がほころぶように彼の妻は微笑む。その笑顔で、彼は自分が幸せなのだと実感する。妻の笑顔は彼の望む幸せの、大きな役割を持っていた。
「……もう、桜も終りですね。花……は……。今夜の風がきっと、落としてしまうのでしょうね」
「……そうかも、しれないね。葉も芽吹き始めたからなぁ……」
桜を眺めて呟く妻の様子に、彼は苦笑を浮かべて答える。
「散ってしまった桜を見には、来ないことにしましょう。次の時はまた、満開の桜を見に参りましょうね」
ほんの少し、悲しそうに彼の妻はいった。彼が妻へ頷くと、彼女は再び笑顔で彼の隣にやって来る。
「今日はもう、帰りましょう。私ももう、少しですけど、疲れましたわ」
二人、並んで川沿いを歩く。川沿いの道は風が強く、春でも長く居ると体が冷える。二人は日が暮れない内に、家へ戻った。
ワンッ
家でたろうが、戻る二人を待っていた。二人が帰ると、たろうは尻尾を千切れんばかりに振って、盛大に出迎えてくれる。
「ただいま、たろう」
妻がたろうの頭をなで、その様子を見ながら、彼はたろうへ声をかけた。そうして、しばらくたろうの相手をした後、二人は家へ戻る。
その日、変わったことは何一つなかった。今までと何一つ変わることなく、彼はやっぱり幸せを噛み締めながら、その晩も床に就いた。次の朝、彼が想像もしなかった悲しみを知らずに。
何が起こったのか、判らなかった。妻が目を開けない。返事もしない。そして、何より鼓動もなく、脈打つ筈の体は冷たく。彼が、その事実を受け入れるには、昨日が余りにもいつも通り過ぎた。
「きよ……こ? 清子?」
名を呼んでみる。返事はなかった。妻はいつものように、眠って居るように見える。妻の頬を両手で包み、彼は妻の顔を眺め続けた。そうすれば、妻が生き返るとでもいうように。
「……清子が、喜ぶだろうなぁ……。今年もこんなに、見事に咲いたと」
妻の逝った日から、ほぼ一年。定年を過ぎ、妻と二人の生活にも、やっと慣れた頃だった。彼はまだ、妻と暮らしているような錯覚を覚えることが良くある。
ワンワンッ
ぼんやりとする彼に、たろうが吠えた。彼は慣れた手つきで、たろうを公園へ放す。
「行っておいで。気をつけて……」
そうしておいて、彼は公園の入り口近くにあるベンチへ腰を下ろす。最近、歳のせいだろうか。やけに疲れを感じて居た。
「……迎えは、何時来るのだろう……」
小さく呟いて彼は、眼を閉じる。妻の居ない家は、とても静か過ぎて……時間の長さが身に染みた。
ゆっくりと、眠りに引き込まれる。その、眠りの狭間で彼は、妻の声を聞いた気がした。
「……き……よ……こ?」
彼の呟きは声にならず、彼の眠りは眠りにならず。彼はそうして、やはり妻と同じく、眠るようにして妻の下へ旅だった。その姿は、日にあたり、転寝をする老人そのもので。彼はとても長いこと、ベンチで桜に囲まれていた。
―――――――――――――― 幸せそうに。
終幕
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